6月26日(木)ワークピア磐田で磐田支部6月例会が行われ、志太支部の㈱ニューウェーブの寺田卓正氏が報告しました。自身で創業した寺田氏は人材育成について振り返り、「理念がないと社員の向く方向がバラバラになってしまう。しっかりと理念を持ち、経営者の想いや会社の方向性を、気持ちを込めて社員に伝えることが大切」と話しました。

 

会社を立ち上げるという一つの大きな目標を達成して、次の目標は経営者になることと決めた時に、志太支部現支部長の松葉秀介氏から同友会を紹介されました。寺田氏は同友会での活動について「入会当時は先輩ばかりだったが、現在は後輩もでき、様々な場面で学ぶことが多い。創る会8期にも参加し、指針を創るという同じ目標を持った仲間もできた」と語りました。

 

経営指針を創り、実践するために新規事業にも挑戦しています。病気になった後のケアだけでなく、病気になる前に予防しより健康になってもらう治療院を目指し、日々チャレンジをしています。今後は予防医学を産業として成り立たせることを目標にし、その為に「社員教育もしっかり行っていきたい」と報告しました。

 「仲間づくりは、自分づくり・地域づくり」と話す加藤克洋氏(民宿東海/榛原支部)。同友会の理念や成り立ちを今一度学ぶイントロセミナーを、6月28日(金)牧之原市総合健康福祉センターさざんかで開催しました。会員16名・オブザーバー3名が参加し、自社経営と同友会を一体として捉える大切さを学びあいました。

 「同友会とはどうゆう会か?」を髙橋幸夫氏(かちどき特許事務所/三島支部)がわかりやすく説明したのち、牧之原市で民宿経営する加藤氏は「同友会と私」の報告で「同友会で楽しく学びながら人脈ができた」と語りました。創業した昭和54年以来、夏のシーズンでは静波海岸に各地から海水浴やサーフィンの観光客が多い時代が続きました。しかし、インフラ整備が進み、宿泊客が減っていきました。以前は21ヶ所あった宿泊施設も今では8ヶ所になりました。リーマンショックや震災による原発の風評被害も追い打ちをかけました。法人客や外国からのお客様のキャンセルも相次ぎ、厳しい状況が今も続いています。そのような中でも、加藤氏は「同友会で出会った多くの先輩経営者の苦労話やアドバイスを聞き、充実した生活を送っている。仲間をつくることは、自分を律する機会が増える。そして、同友会で共に学ぶことは、同時に地域づくりに繋がっていく」と参加者にむけて語りました。
 知久正博氏((有)知久会計センター/県代表理事)は「支部活動だけで留まらず、県や全国の活動にも積極的に出ていくと、さらに『自分はどうあるべきか』『どう会社を良くしていくか』を常に考えることができる」と言いました。

 グループ討論では「貴社の最優先課題は何ですか?」をテーマに議論しました。「本業が今後成り立っていくのかを見極める。そのためには何より社員が大切になる。一丸となった経営をしていく。」また、「新しい商品やサービスなど積極的に進めるとともに、社員教育など社内体制の充実を図る」と、全グループが発表しました。最後に会員・オブザーバーの参加者全員で「握手」を交わし、閉会しました。

 

6月26日(水)伊東市ひぐらし会館にて伊東支部6月オープン例会が開催されました。

報告者は杉山拓也氏(大平造船工業㈱)と鈴木涼太氏(㈲東亜電気工業)の二名。我が経営を語りました。

 

江戸時代より先祖代々伊東市にて木造漁船の建造を行ってきた大平造船工業㈱。長い歴史を受け継ぐ覚悟を決め、マリンスポーツ業から家業に戻った杉山氏。木造漁船の激減により、造船のFRP技術をいかした防水・塗装業に進出しました。「何事においても安定した会社にしたい」と報告を締めくくりました。

 

㈲東亜電気工業は住宅関連の電気設備工事(主に、配線工事やコンセント・照明の取り付けなどを行う屋内線)を行っています。自身は大手の電気関連の会社に出向中のなか感じる不安や、新入社員とのかかわり方等、赤裸々に語りました。

 

バズセッションのテーマは「ニューリーダーがすべきこととは?」で行われ、様々な意見が飛び交っていました。

 

他支部から多くの参加者が集まり行われた今回の例会。同友会の元気は地域の元気。今後も引き続き活発な伊東支部の活動を続けていきます。

 

今回は、レジュメをみるなり絶対に拾って帰らなければならない言葉がいくつも散りばめられていて、それを聞き逃すまいといい緊張感を保ちながら講演を集中して聞く事が出来ました。

同友会に入会する前の自身の実情と入会の経緯から、怒涛の勢いでお話をしてくださったのですが、時間の感覚を忘れてしまうほどに惹き込まれてしまったように思えます。加藤氏が、中でもしきりに言っておられたのは「人」についてであり、同友会の労使見解、人間尊重の精神がいかに中小企業の経営に於いて大事なのか、「自主」「民主」「連帯」の理念に基づき、いかに「人材育成」をしていくべきなのか等、人・従業員との関り方について、いつも聞いているお話とはまた違った視点で勉強できたと思います。

経営に対する姿勢として、経済環境や競合企業等の外部要因に責任を転嫁せず、自社の課題として展開していき、その中で自社の強み・弱みを徹底的に分析するという事でした。就中「克ち進む経営」の本質についてふれ、あるべき姿・成功要因を見出すというお話については、自分の精神に内包する「甘え」を改めて実感した次第です。

「会社は必ずつぶれる」なんて言葉も衝撃でしたけども、話を聞けばなるほど「現状に甘え」て、危機感を持たずに何もしなければそうなるんだろうと理解する事ができ、会社を発展させるためには、常に「危険と機会」の認識をする事がその秘訣であるとの事でした。

この合同例会は今年で数えて11回目の開催となりました。十年一昔とは言いますが、当時と現在を比較すると会員の顔ぶれもだいぶ変わっているのでしょう。しかし、夫々に脈々と受け継がれてきた伝統は、幾分輪郭は変わろうとも、その中核である理念や精神を基本としてしっかりと受け継がれているはずですし、支部としての細胞でもある我々のDNAに深く刻まれているものと思います。

投稿:鈴木高史氏(㈲鈴木製作所)

 

沼津支部6月例会「二代目社長の経営体質強化の近況報告」が行われました。 報告者はあの「王飛べる」の金指社長。社内幹部から社長になった二代目です。

その報告は「私の教科書」と称する経営指針書を各テーブルに配布して語られました。 1.社長になった経緯と会社の変遷、2.起こってしまった経営危機と3つの再建策、3.脱出後の中長期テーマ、4.今実行しているテーマ=「幹部三大任務」、5.今の目標、の順で冷静に語られました。

社内にはご自分の部屋も机も椅子も持たずに、社内巡回と対外調整役に徹し、行動計画は責任者に任せる姿は「指針経営」そのものでした。ご自身の社長業としての行動も、質疑応答やその後の例会反省会では具体的にご披露下さいました。指針経営を「絵空事」でなく「現実に実施」されている例会報告になりました。

バズセッション(グループ討論)のテーマは「報告を受けて感じたこと。今後自社で取り組んでいきたい事は何ですか?」です。同友会会歴の長い方、慣れ始めの方、入会したての方、いろいろな立場の会員がいらっしゃいますが、参加者はそれぞれ何を持ち帰って戴いたのでしょうか。

投稿 座長 沼津支部 第二委員長 (有)イーコン 笹沼 幸雄

6月18日(火)三島商工会議所で三島支部6月例会が行われ、寛永元年(1624年)創業の歴史ある葬儀屋、㈲佐藤葬具店の佐藤浩美氏が報告しました。身内を亡くし、突然の社長就任となった2000年、佐藤氏は当時を振り返り、「大切な人を亡くして正直仕事どころではなかった。しかし社長になったことには意味があると感じ、自分が体験したことを生かしたい」と話しました。

 

亡き父からの「人の話をうまく聞いてほしい」という言葉を心に留め、同社では遺族の要望に誠心誠意対応し、故人が好きなものを棺に入れたり、飾ったりしてオリジナル葬を行います。故人が好きだったものは見つかるまで、スタッフと全国どこでも探します。

また、「㈲佐藤葬具店 友の会<さとう倶楽部>」を発足し、生活に関する情報を友の会の会員に発信し、イベントや旅行も紹介しています。「生まれたときから終焉までのサポートをして、提案や相談もできるようにしたい」と考えています。

 

葬儀屋が増えている昨今、佐藤葬具店では「400年続く歴史を生かし、お客様の要望も取り入れながら、葬儀だけでなく、日常の情報交換や様々な体験など、コミュニケーションを行える場を広げてライフサポートをしていきたい」と語りました。

山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と- 

                論語を朗誦している閑谷学校を訪ねる 

 

   三日目、岡山駅前からタクシー2台で岡山旭東病院へ向かう。岡山同友会の元代表理事で院長の土井彰弘様を訪ね、病院経営についてお話しを伺った。 同友会の「企業訪問」である。マニフェストとして「岡山旭東病院は、脳・神経・運動器疾患の総合的専門病院として、患者さまの目線に立った医療を提供し、医療サービスの品質を高めるため、教育(共に育つ)、高度先進医療機器の導入、療養環境の整備、音楽や絵画・料理・庭園・生花の整備・クリニクラウンの活動など文化(芸術)との融合に全職員がコラボレーションし、治療効果を上げるべく努力していきます」。そして”癒し・笑い・ユーモアを取り入れ、病院の新しい文化を創ります”(当日の土井先生の説明とHPから)とある。正面玄関から入った患者さんの待合室の雰囲気が大変に穏やかだったのが印象的でした。いくつかの待合室を通りすぎたが、何処も同じ雰囲気で、患者さんの笑顔やスタッフの手ぶり、身ぶりの会話もゆったりとした安心感がただよっていた。また説明の中で看護士さんの人数が他の病院の倍近くで、なお採算を合わせていく病院経営の話を聞きましたが、白い巨大な医療機器に描かれたやさしい手書きの絵や、「こそ丸」君のユーモアなど病院全体が醸し出す穏やかさの中に秘められた、岡山旭東病院の経営理念を見た思いでした。病院食とは思えないお昼を頂き、今回の旅行で一番美味しかったと若い梅屋さんと顔を見合わせました。「病気を治すと同時に本来の人間も取りもどす病院だ!」病院の外に出て、強い陽の光と喧噪の中に身を置いたとき、特にその思いを強くしました。

 最後の見学地「閑谷学校」はここから一時間はかかる。土井先生のご厚意で先生の車と病院の車を用意してくれてあった。

 寛文6年(1666)岡山城主池田光政が和気郡木谷村の北端にある延原と呼ぶ場所を検分した。古い山陽道と中世以降に出来た山陽道との中間にある山紫水明の静寂境である。季はあたかも晩秋、散り残った黄や紅の紅葉が、爽やかな秋光に映えて、光政の心を楽しませた。「ここに手習所を建てて学問をさせる場所に・・」。1670年、延原を閑谷と改称、仮学校を建てる。(閑谷学校・岩津政右衛門著より)

 緑の山を背負い赤い備後焼きの瓦で覆われ四つの建物で構成される閑谷学校のたたずまいは、今まで全く経験したことのない情景で、一瞬、立っている場所を見失うような錯覚を覚えた。屋根に葺いた備前焼瓦の朱に藍を流した落ち着きのある色調と、講堂の入母屋造り・しころ葺きの大屋根の、流れる様な線の美しさとスケールの大きさは見るものを圧倒する。案内人の説明によると、瓦下には備前焼の細い配水管を入れて雨水への対策を完全にする手の込んだ造りで、瓦と共にその膨大な数量の生産に携わった人々の気の遠くなるような労働の日々は、どれほど豊かで誇り高いものであっただろうか。また内部の欅の十本の丸柱も床も江戸時代から今日に至るまでここに座った生徒達によって拭き込まれ、窓(火灯窓)からの明かりを反射して鈍く光っていた。

 講堂の裏手にある習芸斉は毎月三と八の日に五経と小学の講釈が行われ、朔日(ついたち)の朱文向学規講釈には農民の聴講も許されたという。敷地内には正面に校門があり鶴鳴門とも呼ばれ、棟に鯱を載せるのはこの門だけ。閑谷神社は創始者池田光政を祀っている。聖廟には練り塀の中に孔子像を祀る大成殿と文庫、厨屋がある。これら堅固で壮麗な建築物が完成されたのは、光政の死後、元禄十四年(1717)で、二代目藩主綱政の時。現存する庶民を対象にした(郷学)学校建築物としては世界最古のものといわれている。

 綱政は延宝二年四月(1674)閑谷学校経営の資として、木谷村の内二百七十九石余を学田として付託し、学校が独立した会計をもつことになった。元禄十三年二月、改めて中村の開田を木谷村とし、もとの木谷村を閑谷新田村と改称して永く学田とする書状が綱政から交付された。そして閑谷新田村を備前藩の版図から切り離して、永代閑谷学問所に付与するという措置も行われた。国替えや絶家などの非常事態が発生しても学校だけは存続して経営が出来るという保証が与えられたことになる。しかし一つの村を版図外に置くことは非常にむずかしい作業だった。貞享元年三月にこのことを上申してその準備に十七年を費やした。そして旧木谷村の住民にはそれぞれ移住先と田地を取得させ、充分な手当を与えて立ち退かせた。しかし中村の新田を木谷村に直しただけでは足りず、その不足を友延で取り、その不足を麻宇那で取り、という順で次々に足し、二百七十九石六斗五升八合をうみだし、人々の落ち着く先を定めたと伝えられている。またもとの住民が立ち退いた跡の閑谷新田村には学田下作人を他から集めて入村させたという。(閑谷学校・厳津政右衛門著)現代の政治家が山田方谷と共に池田綱政にも学ぶべき所は多いことを痛感した。

 私が最も興味を引かれたのは、校地を取り巻いている石塀でした。その蒲鉾を伏せたような石塀は、幅1.84㍍、高さは地盤から石塀の上端まで2.1㍍で、そのおおらかな石組みの塀は校門(鶴鳴門)から左右に延長765㍍におよぶ壮大な構築物である。五月の陽に温められた石組みに、手を触れてなお去りがたい思いでした。石組は「切り込みはぎ式」と呼ばれ、基礎に捨て石を置き、瀬山石(水成岩)の切石を両面から合端(あいば)よく積み上げ、上端(うわば)石を蒲鉾型にはめ込んで仕上げてあり、内部には同じ石質の割栗石(わりぐり)を水洗して詰め、いっさいの土気を防ぐ慎重な積み方である。「蒲鉾型石築塀」と呼ばれていると、案内人が教えてくれた。だがどうしてこの様な石築塀が出来たのか、そこに込められた意味は解らなかった。石垣や城壁が鋭角で人を拒絶するものであるのに、この石築塀は人を誘い入れる優しさをもっている。詰め込めた割栗石の中に、当時の石工達の智恵とやさしさを思いめぐらせた。

 山田方谷が六十七才(1872=明治4)の時藩校有終館が閉じられ、翌七十三年二月、方谷の発意により岡山の中川横太郎、岡本巍が奔走、「閑谷精舎」として再興し、方谷を督学(校長)とした。方谷は儒教の勉強では「陽明学」を柱にせよとした。開校時には20名ほどだったが、翌年には100名となり、生徒の中から大原孫三郎、正宗白鳥、三木露風などが輩出した。           

 現在閑谷学校では日用論語が講堂で行われ、朝の一時を論語の一章を朗誦している。先日鎌倉さんが今回の旅行の下検分にきたときには、小学生の論語のカルタ取り大会が行われていたという。また文化講演会や史跡めぐりなど、年間を通して閑谷学校の歴史にちなんだ文化的な催しが行われている。ちなみに頂いた案内の中に、今年の9月に行われる史跡めぐりは閑谷学校の資料館(明治38年建築)の設計者、故江川三郎八の足跡を辿り、江川氏が設計した吹屋小学校本館を訪ねるとありました。私達が辿った山田方谷を巡る旅の最後となった閑谷学校に集う人々が再び吹屋の村を訪ねる偶然を喜び、小松ゼミの至福の一時を過ごさせて頂きました。(先に帰られた皆様、申し訳ありません。)

 

  最後になりましたが旭東病院の土井先生に心から感謝し、何時も沢山の資 料を用意して、いやが上にも旅のロマンをかき立ててくれる鎌倉さんに改め てお礼を申し上げて、この駄文を終わります。 

寄稿:竹内  昭八氏(㈱タケウチ)富士宮支部

山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と  

                  天空の城砦「備中 松山城」       

 

 翌19日(日)。早朝散歩の約束通り朝5時30分。油屋旅館の前の道路を横切って右手へ。200㍍ばかりの所にある高梁川にかけられたアーチ型の「方谷橋」を渡る。そこから山の斜面に方谷林公園が広がり、入り口からいきなり急な斜面を30分ばかり息を継いでのぼる。方谷の遺徳を永久に顕彰しようと、明治44年(1911)に開園された。桜を中心にした雑木林で、方谷が4才の時に書いた「風月」の文字を刻した風月岩があり、朝の陽を一杯に浴びていた。展望台には古びた東屋があり、そこからは眼下に川幅のある高梁川が流れ、対岸南に川に沿うように高梁の町が薄曇りの空の下に拡がっていた。東屋の上には台地を区切って、岡山県の原爆慰霊碑が静かに建っていた。

   朝食までにまだ間があるので旅館の東の街を歩いた。頼久寺を目指したが早朝で開門していない。通りすぎて、武家屋敷前、急な掘り割りに突き当たった時、野球の支度をした高校生らしき数人と出会った。県立高梁高校の早朝練習とのこと。

 かって備中松山城は標高430㍍の臥牛山山頂にあったため、藩主の館と藩の政庁をを兼ねた御根小屋で通常の政務は行われていた。県立高梁高校はその跡地に建てられている。日本の道路百選に選ばれている紺屋川を下ってくると藩校有終館跡地の碑が建っていた。方谷が2二十一才で学び、三十二才から学頭を務めた松山藩の学問所。現在高梁幼稚園が建っていた。旅館近くの観光駐車場で10㍍は優にある高瀬舟を見つけた。方谷は新産業開発で増加する藩内の産物の運搬に高瀬舟を利用して効率化し、運航させるために水路工事でインフラを整備、農村の雇用を増やした。「浅瀬を航行するところから高瀬の名が付いたという。風が良いときには帆を張り、竿、櫓、櫂などを補助推進力としていた。川下りは良いが遡航する場合は大変で、乗組員が降りて綱を引っ張ったり、岸に専門の引っ張り屋がいたりした。馬で引く場合もあっただろうが、流れに合わせて左岸へ上ったり、右岸から引いたり、効率の悪さは今では想像もつかない。船曳の労働者の苦労はいかほどのものだったか。重い舟を前屈みで引き続ける姿は、たくましさではなく哀れさを誘う。(鎌倉氏、旅行の資料より)」話しはそれるが、かって富士川にも山梨県の鰍沢辺りまでの舟運があり、登りの船曳き人足が手をかけた岩が円くなって今も残り、その時にはいた草鞋が鮎釣りの人々に伝えられている。

 狭いダイニングルームで肩をすり合わせるように全員で朝食。高瀬舟の話しはすぐ皆さんに伝わって出発までの時間に見に出掛けた。ホテルではこうはいかない。昨夜の夕食会もみんなと膝つき合わせての話しは、声と表情と仕草があって、やっぱり日本旅館は落ち着くような気がする。

雨模様なので最初に松山城へ。かって御根小屋と天守との伝達手段として太鼓が使われていたが、その太鼓丸櫓跡で大手門のすぐ下の駐車場まで狭い山道を一気に高度をあげて到着。そこからつづら折りの山道を十五分ばかり、大手門跡を過ぎて三の丸広場へ。右手には岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てた山城の堅固な守りに驚く。さらに石段を上がると二の丸広場へ。城下を見下ろすと、蛇行する高梁川とそれに沿った街並みが正面の山々に囲まれるように遙か下流にぼんやりと消えていた。振り返ると天空の城砦といわれる備中松山城の本丸、天守、二重櫓が聳え立っている。最も高い所に天守閣が現存する山城で、籠城戦を想定し、囲炉裏や装束の間があり、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴。昭和25年に重要文化財の指定を受けている。1240年承久の乱で戦功のあった秋庭三郎重信が地頭としてこの地に赴任。臥牛山の大松山に砦を築く。これが松山城の歴史のはじまりで、1744年板倉勝澄が伊勢亀山より入封、藩校有終館設立まで五百余年、十五代の城主を数える。幕末に板倉勝静は徳川慶喜を補佐。老中首座へ。山田方谷を登用して藩政改革に成功。戊辰戦争で朝敵とされるも方谷は”公の論理に基づかなければならない藩そのものの運命については、自らの判断で官軍に降伏した”(童門冬二「山田方谷」より)。松山藩は戦火を免れた。 

 松山城を降って頼久寺へ。小堀遠州作庭の頼久寺の蓬莱式枯山水庭園を見ることが出来るとひそかに期待していた。1600年関ヶ原合戦後、徳川家の代官として小堀正次が松山城に入城。正次の急死で遠州が継承。城と御根小屋の修復に力を注ぎながら遠州自ら作庭したものだ。愛宕山を借景し、白砂敷きの中央に鶴亀の岩島を置いて、書院左手の山畔に添ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。桃山から江戸初期に好まれた様式で、現在まで旧態のままで保存されているのは他にないのではないかといわれている。(頼久寺の案内より) 書院への踏石や白砂の流れは時の奥行きを秘めて、静と動の連続を表している。同じ小堀遠州作庭といわれる京都南禅寺の「方丈庭園」、金地院の「鶴亀の庭園」とは趣の違う端正な庭だった。元治元年(1864)第一次長州征討が起こった際、藩の守備を預かる方谷は頼久寺に入り郷兵を指揮した史実が記されていた。

 偶然にも高梁市歴史美術館で「山田方谷とその時代」の企画展が開かれていたので、歴史美術館2階へ寄ることにした。「学者としての方谷に着目し、その師友との交流」をテーマとして開催されていた。義孫山田準氏が編纂した「山田方谷先生年譜」を頂き、それには方谷に連なる五十九人の幕末の著名人が記され、方谷を知る上で楽しくも沢山の発見をする資料となった。 また今年の三月一日に岡山県指定重要文化財となった備中松山藩校有終館蔵書の一部も公開されていて、方谷の講述を記した「師門問弁碌」等、方谷の直筆や資料に接することが出来た。

 すぐ隣は総合文化会館で、人口は約35000人の町の中心に二つの文化的な建物が並んでいることになるが、豊かな歴史的遺産を大切にしようとする街の人々の意志がなせることだろうと思った。

 倉敷に移動。駅前の食堂街で全員で昼食。ここで今日帰静する人と別れ、残った人もそれぞれ自由行動。今夕6時に岡山駅前のホテルロビーに集合して夕食を共にすることを約して大原美術館へ出かけた。

寄稿:竹内  昭八氏(㈱タケウチ)富士宮支部  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月は「中小企業憲章推進月間」として全国各地で憲章・条例のシンポジウムや学習会が開催されています。静岡同友会は15日(土)に中小企業憲章・振興基本条例学習会を開催しました。「中小企業憲章による期待に応えて自社と憲章を活かす、その進路は?よい経営・よい経営者めざし憲章で自社を振り返り、憲章で指針をたてる」をテーマに、愛知同友会の加藤洪太郎氏(名古屋第一法律事務所)が登壇しました。

パートナー弁護士30 名と補助職員30 名のネットワーク型法律事務所として事業を営む加藤氏は、経営理念と中小企業憲章草案が掲げる理念を車の両輪として捉えています。「所員各自の豊かな個性と得意分野を活かすとともに内外のネットワーク構築に努め総合力を発揮します」の経営理念。「『中小企業はこうなってほしい』という国民や地域の期待が成文化された憲章草案の精神を、自社の経営理念に取り入れてみましょう」と参加者に語りました。

中小企業憲章の国会決議と振興基本条例の制定をめざす同友会。企業発展に掲げた各社の経営理念が地域社会や公共の利益などに貢献できているか今一度確認することが大切です。

当日は静岡県、静岡市行政、静岡大学教授はじめ、36名が参加しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「目標は、日本民族救済 幸せを生む住まいをつくる~必要とされる会社になる、住まいの駆け込み寺を目指して~」をテーマに、勝亦英樹氏(勝亦製材駿河鉄骨㈱代表取締役社長/御殿場支部)が例会報告に登壇しました。6月12日(水)エピ・スクエアにて第340回御殿場支部例会が開催され、44名が参加しました。

御殿場市を中心に、建設業と不動産業を展開する同社社長の勝亦氏は、大学院修了後、横浜にある大手土木業社に入社しました。現場監督として過ごしながら、元々家を継ぐと覚悟していたため、平成5年に実家に戻りました。平成7年には入会。同友会に参加してはじめて「何のために経営しているか」を考え、経営理念の存在とその必要性を知りました。平成10年に社長就任。49期目を迎える同社3代目の経営者として、厳しい建設業のなかでも、生き残るために取り組む経営戦略を参加者に発表しました。

平成8年に入会した住宅研究グループ(HSG)では「幸せを生む住まいをつくること」は「日本民族の救済のため」と勉強。企業の提案だけでなく、お客様とともに知恵を出しあいながら、幸せを生む住まいを考えています。同友会やHSGの理念を学びながら、どんな経営をすべきかわかり、自社の経営理念を成文化しました。

また勝亦氏は「住まいの駆け込み寺」となる会社をめざしています。エリアを絞りこみ、広報紙や雑誌をお客様に配るなど、既存のお客様とのお付き合いを大切にしています。社会奉仕活動にも積極的に取り組んでいます。今後は、より提案型の建設業・不動産業として、いつまでもお客様に必要とされる会社づくりをめざす抱負が聞かれました。