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山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と-②

カテゴリー:新着情報, 静岡全県|最終更新:2013年06月20日

山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と  

                  天空の城砦「備中 松山城」       

 

 翌19日(日)。早朝散歩の約束通り朝5時30分。油屋旅館の前の道路を横切って右手へ。200㍍ばかりの所にある高梁川にかけられたアーチ型の「方谷橋」を渡る。そこから山の斜面に方谷林公園が広がり、入り口からいきなり急な斜面を30分ばかり息を継いでのぼる。方谷の遺徳を永久に顕彰しようと、明治44年(1911)に開園された。桜を中心にした雑木林で、方谷が4才の時に書いた「風月」の文字を刻した風月岩があり、朝の陽を一杯に浴びていた。展望台には古びた東屋があり、そこからは眼下に川幅のある高梁川が流れ、対岸南に川に沿うように高梁の町が薄曇りの空の下に拡がっていた。東屋の上には台地を区切って、岡山県の原爆慰霊碑が静かに建っていた。

   朝食までにまだ間があるので旅館の東の街を歩いた。頼久寺を目指したが早朝で開門していない。通りすぎて、武家屋敷前、急な掘り割りに突き当たった時、野球の支度をした高校生らしき数人と出会った。県立高梁高校の早朝練習とのこと。

 かって備中松山城は標高430㍍の臥牛山山頂にあったため、藩主の館と藩の政庁をを兼ねた御根小屋で通常の政務は行われていた。県立高梁高校はその跡地に建てられている。日本の道路百選に選ばれている紺屋川を下ってくると藩校有終館跡地の碑が建っていた。方谷が2二十一才で学び、三十二才から学頭を務めた松山藩の学問所。現在高梁幼稚園が建っていた。旅館近くの観光駐車場で10㍍は優にある高瀬舟を見つけた。方谷は新産業開発で増加する藩内の産物の運搬に高瀬舟を利用して効率化し、運航させるために水路工事でインフラを整備、農村の雇用を増やした。「浅瀬を航行するところから高瀬の名が付いたという。風が良いときには帆を張り、竿、櫓、櫂などを補助推進力としていた。川下りは良いが遡航する場合は大変で、乗組員が降りて綱を引っ張ったり、岸に専門の引っ張り屋がいたりした。馬で引く場合もあっただろうが、流れに合わせて左岸へ上ったり、右岸から引いたり、効率の悪さは今では想像もつかない。船曳の労働者の苦労はいかほどのものだったか。重い舟を前屈みで引き続ける姿は、たくましさではなく哀れさを誘う。(鎌倉氏、旅行の資料より)」話しはそれるが、かって富士川にも山梨県の鰍沢辺りまでの舟運があり、登りの船曳き人足が手をかけた岩が円くなって今も残り、その時にはいた草鞋が鮎釣りの人々に伝えられている。

 狭いダイニングルームで肩をすり合わせるように全員で朝食。高瀬舟の話しはすぐ皆さんに伝わって出発までの時間に見に出掛けた。ホテルではこうはいかない。昨夜の夕食会もみんなと膝つき合わせての話しは、声と表情と仕草があって、やっぱり日本旅館は落ち着くような気がする。

雨模様なので最初に松山城へ。かって御根小屋と天守との伝達手段として太鼓が使われていたが、その太鼓丸櫓跡で大手門のすぐ下の駐車場まで狭い山道を一気に高度をあげて到着。そこからつづら折りの山道を十五分ばかり、大手門跡を過ぎて三の丸広場へ。右手には岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てた山城の堅固な守りに驚く。さらに石段を上がると二の丸広場へ。城下を見下ろすと、蛇行する高梁川とそれに沿った街並みが正面の山々に囲まれるように遙か下流にぼんやりと消えていた。振り返ると天空の城砦といわれる備中松山城の本丸、天守、二重櫓が聳え立っている。最も高い所に天守閣が現存する山城で、籠城戦を想定し、囲炉裏や装束の間があり、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴。昭和25年に重要文化財の指定を受けている。1240年承久の乱で戦功のあった秋庭三郎重信が地頭としてこの地に赴任。臥牛山の大松山に砦を築く。これが松山城の歴史のはじまりで、1744年板倉勝澄が伊勢亀山より入封、藩校有終館設立まで五百余年、十五代の城主を数える。幕末に板倉勝静は徳川慶喜を補佐。老中首座へ。山田方谷を登用して藩政改革に成功。戊辰戦争で朝敵とされるも方谷は”公の論理に基づかなければならない藩そのものの運命については、自らの判断で官軍に降伏した”(童門冬二「山田方谷」より)。松山藩は戦火を免れた。 

 松山城を降って頼久寺へ。小堀遠州作庭の頼久寺の蓬莱式枯山水庭園を見ることが出来るとひそかに期待していた。1600年関ヶ原合戦後、徳川家の代官として小堀正次が松山城に入城。正次の急死で遠州が継承。城と御根小屋の修復に力を注ぎながら遠州自ら作庭したものだ。愛宕山を借景し、白砂敷きの中央に鶴亀の岩島を置いて、書院左手の山畔に添ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。桃山から江戸初期に好まれた様式で、現在まで旧態のままで保存されているのは他にないのではないかといわれている。(頼久寺の案内より) 書院への踏石や白砂の流れは時の奥行きを秘めて、静と動の連続を表している。同じ小堀遠州作庭といわれる京都南禅寺の「方丈庭園」、金地院の「鶴亀の庭園」とは趣の違う端正な庭だった。元治元年(1864)第一次長州征討が起こった際、藩の守備を預かる方谷は頼久寺に入り郷兵を指揮した史実が記されていた。

 偶然にも高梁市歴史美術館で「山田方谷とその時代」の企画展が開かれていたので、歴史美術館2階へ寄ることにした。「学者としての方谷に着目し、その師友との交流」をテーマとして開催されていた。義孫山田準氏が編纂した「山田方谷先生年譜」を頂き、それには方谷に連なる五十九人の幕末の著名人が記され、方谷を知る上で楽しくも沢山の発見をする資料となった。 また今年の三月一日に岡山県指定重要文化財となった備中松山藩校有終館蔵書の一部も公開されていて、方谷の講述を記した「師門問弁碌」等、方谷の直筆や資料に接することが出来た。

 すぐ隣は総合文化会館で、人口は約35000人の町の中心に二つの文化的な建物が並んでいることになるが、豊かな歴史的遺産を大切にしようとする街の人々の意志がなせることだろうと思った。

 倉敷に移動。駅前の食堂街で全員で昼食。ここで今日帰静する人と別れ、残った人もそれぞれ自由行動。今夕6時に岡山駅前のホテルロビーに集合して夕食を共にすることを約して大原美術館へ出かけた。

寄稿:竹内  昭八氏(㈱タケウチ)富士宮支部  

 

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